採用ポスターギャラリー
ここでご紹介する一連のポスターは、これから社会へと飛び出していく皆さんたちに、 私たちが「遊びを楽しむ空気をプロデュースする企業」であることを伝えたいと願い作成したものです。 いかがでしょう、その思いが皆さんにも伝わるでしょうか。
- 2018年 「キャッチャー」
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就職活動の幕が切って落とされた、大学3年の春休み、東京の学校へ行っている幼なじみから電話があった。地元で行われる会社説明会へ参加するついでに、里帰りするらしい。彼との付き合いはずいぶんと長く、小学校から高校まで一緒の学校へ通い、部活もずっと一緒に野球を続けた仲で、自他ともに認める大親友だった。でも、この時の彼からの電話は、何故か羨ましく感じてしまうものが僕にはあった。「就活すら余裕なのだろうか?・・・」と。
彼が帰省したその日、僕らはいつもの様に食事へ出かけた。ただ、いつもとは違うことが1つだけあった。それは、僕が話す内容だ。いつもであれば、いつのまにか昔話に花を咲かせて盛り上がるのだが、自分のやりたいことも解らないまま就活が始まってしまい、未だ会社説明会にも参加していない状態に焦りと不安を感じていたのだ。「この時期に里帰りなんて凄いよね!就活も順調なんだ?ほんと、羨ましいよ・・・」お酒の影響もあり、口にはしないと決めていた想いを、つい漏らしてしまった。
「君は、自分がどれだけ凄いか解ってないんだね・・・」
僕の愚痴を黙って聞いていた彼が、静かに話し出した。
「覚えてる?キャッチャー決めた時のこと」小学4年生の時、チームの誰もがキャッチャーをやりたがらず、野球を始めたばかりの彼が押し付けられそうになった時のことだと、すぐに解ったが、予想もしない話の展開に僕は黙っていた・・・「あの時『僕がやる!』って言い出したよね?びっくりした僕が理由を聞いたら、なんて答えたか覚えてる?『無理やりやらされても面白くないじゃん!』って笑顔で言ってくれたよね。あの時から僕は君に憧れたんだ。僕も、自分のことは自分で決めるって、怖くても逃げ出さない強さが欲しいって、ずっと君のこと追いかけて、ずっと自分なりに頑張った。もし、本当に今の僕を『羨ましい』って思っているなら、それは全部、君が教えてくれたことなんだ、それだけなんだ・・・」
彼が話し終えたあと、僕らを何とも言えない沈黙が包み込んだ。僕は、その場から逃げるようにトイレへ駆け込み、しばらくテーブルに戻れなかった。
彼は努めて穏やかな口調で伝えてくれたが、僕の目を覚ますには十分だった。高校野球でレギュラーに成れなかったことや、志望大学に入れなかったことが続き、僕は失敗することが怖くて、挑戦すること頑張ることから逃げていたのだ。あの時、僕がキャッチャーを選んだのは、今迄の経験とは違う事を求められ、新たな挑戦と刺激があると思ったから。きっと、みんなが喜んでくれると思ったから。ただそれだけで、純粋に頑張っていた自分自身のことを、僕は鮮明に思い出すことが出来た。
月日は流れ、僕は最終的にユーコーという会社に入社を決めた。理由は至ってシンプル「笑顔と元気の創造」という理念、「挑戦する考動」という指針を大切にしているからだ。ここでなら、僕はあの時と同じように、自らキャッチャーを目指すことが出来ると思う。そして、ここなら、あの時の彼と同じように、その意識や姿勢を認めてくれると感じていた。
- 2017年 「手紙」
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直接は照れ臭いから手紙にしますね。
貴女はお母さんの自慢です。 頭が良いとか運動が出来るとかじゃなく 心の優しい子であることが、お母さんの一番の自慢です。 どんなに小さな事にも、それがほかの人の事であっても 心から喜び心から悲しむ貴女が、お母さん本当に嬉しかった。 今でも昨日のことのように覚えています。 幼稚園に通う貴女が初めてクリスマスプレゼントを手にした時、 「サンタさんが来た!」と喜ぶよりも先に 「みんなのところにもちゃんと行ってくれたかな?」と心配する姿を。 お母さん、その姿にいつまでも純粋なままで、優しいままでと願っていました。
今だからいえるけど、実は心配していた時期もありました。 涙もろいからいじめられないかな?って でも「泣き虫ってからかわれる。」と貴女から相談を受けた時、 優しい子のままでいて欲しいというお母さんのわがままで 「人よりも感受性が豊かなだけ。気にしないで!」と伝えてしまいました。 もしかすると、貴女には辛い思いをさせたかも知れませんね。ごめんなさい。
お母さん、世の中のことや会社のことはよく解らないけど 貴女のような純粋な心で生きるの、大変なことだろうと思っています。 もしかすると、優しさを利用されることだってあるのだろうと思っています。 きっと色んな経験と引き換えに、貴女らしさを失うのだろうと覚悟していました。 でも貴女から、感謝する気持ちを求められる会社に就職したいって聞いた時、 その心配は、お母さんの取り越し苦労なのだと気が付きました。
自信を持って、貴女が決めたユーコーという会社に進んで下さい。 感謝する気持ちをしっかりと見てくれる会社へ、希望を持って進んで下さい。 貴女ならきっと大丈夫。誰よりも感謝を大切にしているって、お母さん知っているから。 でも、初めての仕事は大変なはずです。身体には気を付けて下さい。 時には声を聞かせて下さい。時々でいいから顔を見せて下さい。
母より
- 2016年 「笑顔の理由」
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「今日も大変だったけど、楽しかったね!」 ダンススクールからの帰り道。小4の頃から一緒に通う友人が声を掛けてきた。 中3の私たちは、間近に迫った最後の大会に向け厳しい練習を重ねていたが、 彼女の表情は溢れんばかりの笑顔で輝いていた。 私は「そうだね。」とだけ答え、足取り軽く帰っていく彼女の後姿を見送りながら、 「私と何が違うんだろう・・・」とつぶやいていた。
「最近なんかあったの? 練習、大変?」 友人とは全く違う表情なんだろう。 遅い夕飯を1人で食べていると、母が声を掛けてきた。 「ダンス辞めようと思って・・・」 「そうなの? どうして?」 母が驚くのも無理はない。 あれほど嫌がっていた家事の手伝いと毎日の勉強を約束に 私から頼み込んで通わせてもらっているのだから。 私は、最近選抜チームに選ばれなくなったこと。自分と大差ない子が選ばれていること。 頑張る意味を見いだせず、モヤモヤした気持ちでスクールに通っていることを一息に話した。 黙って聞いていた母は「お父さん、何て言うかしらね?」と言葉を残しリビングを後にした・・・ 1人残された私は、自分のことが凄くちっぽけな存在に思えてしかたなかった。
「ちょっといいか?」 金曜日の夜。ベッドに寝転がり、ぼんやりと音楽を聞いていると、 終電で帰って来たばかりの父が話しかけてきた。 父は遠慮がちに部屋へ入り、僅かな沈黙のあと「辞めたいのか?」と切り出した。 「楽しくないし、頑張っても意味ない気がするから・・・」 父に誤魔化しは利かないと思っている私は、素直に今の気持ちを伝えた。 「そうか・・・」「なぁ・・・久し振りにベランダに行かないか?」 いつ以来だろう? 本当に久し振りに、我が家の小さなベランダに父と2人で並んだ。 外は耳が痛くなるほど静かで、遠くの街の明かりが鮮明に見えるほど空気も澄んでいた。
「父さんなぁ・・・お前の笑顔が世界で1番好きなんだ・・・」 驚いた。想像もしてなかった父の言葉に。そして、寂しげな父の表情に。 気が付けば私は、父の話しに全ての意識を奪われていた。 「お前が『ダンススクールに行きたい! 』って言ってきた時のこと、今でも覚えててなぁ・・・」 「自分で好きなこと見つけて・・・好きなこと打ち込んで・・・笑顔でいてくれて・・・ 父さん、本当に嬉しかったなぁ・・・」 静かに、そしてゆっくりと話す父の言葉を聞きながら、私は思い出した。 どんなに仕事が忙しくても、どんなに疲れていても、 私やお母さんのために、何でも笑顔で協力してくれた父のことを。 そんな父に憧れ、どんな事でも笑顔で頑張ろうと自分に誓いを立てたことを。 そして、笑顔で頑張る私のことを、嬉しそうに褒めてくれる父が大好きだったことを・・・。 鮮明に見えていた遠くの街の明かりが、今や霞んでしか見えない私に、 父が「腹減ったな? ラーメンでも作るか!」と、私の頭を撫でながら言ってくれたとき 私は、大切にしていたことを見失っていることに気が付いた。
月日は流れ、大学4年生となった私は、就職活動の報告と相談のため2年振りに帰省した。 久し振りに会った両親は笑顔で私を出迎えてくれ、本当に嬉しそうにしてくれた。 その日の夕飯「学校のこと」「友達のこと」「バイト先のこと」本当に色んなことを話したが、 メインはやはり就職活動のことだった。 「お父さん、お母さんには悪いけど、今もハッキリと『何がしたいか』解らない・・・ でも、私と1番大切なものが一緒な会社を見つけたの! この会社ならいつも笑顔と元気でいれると思うの!」 少しお酒に酔ったのもあると思うが、饒舌に、そして笑顔でユーコーに決めたい理由を話す私に、 「やっぱり親子ね、お父さんそっくり!」と、母は目じりに沢山の小ジワを寄せて笑っていた。 中学最後の大会。笑顔で終われたあの時のように、父は優しく微笑みながら頭を撫でてくれた。
- 2015年 「ちっぽけな僕」
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「彼」が、僕らの教室にやってきたのは高2の秋のこと。 親の転勤でアメリカの高校に行ったが、日本の大学に進学するために帰国した、 季節外れの転校生。 英語はペラペラ、運動神経も抜群。 まるでアニメの主人公のような彼と、誰もが友達になりたがった。
そんな彼を、僕は遠巻きに眺めていた。 あこがれとコンプレックスの入り混じった、複雑な心境で…。
僕の自慢は友達が多いこと。 勉強は苦手、運動もそこそこ、 旅行といえば、田舎の祖母の家に行くだけで、特別な経験は何もない。 ごく普通な僕にないものを、たくさん持っている彼がうらやましかった。
彼とは、たまたま家が近所だったこともあり、すぐに打ち解けた。 登下校が一緒になることも多く、すぐに親友と呼べるほどの関係になった。
終業式の放課後、いつものように彼と帰宅することになった。 「正月はどうするの?」と、爽やかな笑みを浮かべる彼。 「田舎のばあちゃんのとこ」と僕。「きみは?」 「日本の授業に追いつきたいから、本当はもっと勉強したいけど、 お父さんがロサンゼルスに単身赴任してるから、正月はそっちで年を越すことになった。」
その瞬間、この数か月で親友になった彼が、とても遠い存在に感じた。 僕は小さい頃から、祖母の家以外で年を越したことがない。 今年もいつもの正月。何一つ変わらない毎年の恒例行事。 海外で年を越す彼と比べると、自分がとてもちっぽけな存在だと感じた。
そんな彼がうらやましくなり、家に帰るや、父に直談判。 「今年ぐらい正月は海外に行こうよ!」 「何言ってるんだ。正月はおばあちゃんのところだろう。」 「いつも行ってるから今年ぐらいいいじゃん!友達も行くんだよ!来年は行くから!」 「友達は友達だろ。おばあちゃんの気持ちは考えないのか?」 その時、祖母の嬉しそうな顔が頭に浮かんだ。 そして、年に一度しか会えない祖母に無性に会いたくなった。 でも、海外に行きたいという気持ちもなくなったわけではなかった…。
彼とは奇しくも、同じ大学に進み、交流はその後も続いた。 そして就職活動がスタート。 自分のやりたいことが絞れないこともあり、状況は芳しくない。 学食で昼食をとりながら、つい彼に不満を漏らす。 「いいよな、きみは。英語はしゃべれるし、どこでも友達が作れるコミュニケーション力もある。うらやましいよ。」 「そんなことないよ。僕は君のほうがよっぽどうらやましい。君の周りにはいつだって人が自然に集まるだろ。僕にはそんな才能なんてないから。」 僕は不思議に思った。 「君だって、誰とでも仲良くなれるだろ?」 「僕は、本当は内気な性格だよ。いつもビクビクしてる。だから、無理して明るく振る舞ってるんだ。僕が日本の高校に馴染めたのは、いつも僕を気にかけてくれた君のおかげだよ。」 彼の告白は、僕には衝撃的だった。
本当のちっぽけな僕は、海外経験のない僕ではなかった。 いつも他人を基準にし、言い訳をしている僕だったのだ。 あの時、海外旅行ではなく、祖母の家に行きたいと思えた。 それは、単純に祖母の笑顔が見たかったから…。 「相手の気持ちを考える」 という父の教えがあったから。 本当に大切なものを、僕はもう持っていたんだ…。
やがて就職活動のなかで、ユーコーという会社に出会った。 モットーは「笑顔と元気の創造」。 人のために一生懸命になれる環境があると心から感じた。 もう誰かと自分を比べたりしない。 この会社で、自分のやれることを全力でやっていく。 かけがえのない一言を聞くために-「ありがとう」。
- 2014年 「母の応援」
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小学5年生の僕はサッカーに熱中していた。 放課後も休日も、時間を見つけてはサッカーをしていた。 母もそんな僕を応援してくれ、試合の度に仕事を休んで応援に来てくれた。
「ナイスシュート!」「ドンマイ!切り替えて!」 誰よりも大きな母の声援に応えようと、僕は全力で頑張った。 「あのシュート惜しかったねぇ!」「あのパスすごくよかったよ!」 試合が終わると、母は必ず僕のプレーを褒めてくれた。 母の喜ぶ姿が見たくて、僕は必死でボールを追いかけた。
しかし、中学生になると、ひと目もはばからずに大声で応援する母の姿に、 嬉しさよりも恥ずかしさが増していた。 そして、ある試合のあと、いつもと同じ様に嬉しそうに話す母に対して、 「仕事休んでまで来なくていいから!あんなにおっきな声を出してるの お母さんだけだよ!恥ずかしいからやめてよ!」 そう言ってしまった。 「そっか。もう中学生だもんね。ごめんね。」 少し間を空けて、母は悲しそうな顔で言った。
それから母は試合を応援に来ることがなくなり、 「おかえり。今日はどうだった?」 家でそう尋ねるだけになった。 友達から冷やかされることが恥ずかしくて発した言葉に、僕は後悔していた。 試合に勝つのは嬉しかったけど、何か物足りなかった。 それでも、今さら「来て欲しい」と言い出すことはできなかった。
結局、そのことを母に言えないまま、中学生最後の大会を迎える。 大会の前日、いつも通り準備をしていると、 部屋のドアから顔だけ覗かせて、 「明日…応援に行ってもいい?」 いつもより小さい声で母はそう言った。
「仕事は?」 「休んだ。」 「休んだなら来れば?」 照れくさかったから、そう言うのが精一杯だった。 でも、本当は嬉しかった。 <<明日の試合は絶対に勝つんだ!>> 勝って母に喜んでもらいたい、母の笑顔が見たい。 純粋にそう思った。
そして試合当日、僕はあの頃のように、全力で頑張った。 でも、負けてしまった。 「ごめんね。久しぶりに応援に来てくれたのに、負けちゃった。」 「ううん。お母さんは、試合の勝ち負けはどうでもいいの。もちろん、勝った 方が嬉しいけど、それよりも、あなたが試合の度に成長していく姿を見れる事 が嬉しいの。久しぶりに応援に来て、それを実感した。がんばってる姿が見れ て嬉しかったよ。」 とても嬉しそうに目を潤ませる母を見て、僕は声にならない声でこたえた。 「…ありがとう。見に来てくれてよかった…。」 その時の母の笑顔を、僕は一生忘れることはないだろう。
その後、僕は高校、大学とサッカーを続けた。 さすがに大学生になると試合の応援には来なくなったが、 それでも僕は母への結果報告は欠かさなかった。 あの日の試合で、僕が頑張れる原動力は母の笑顔だと気付いたから。 それは大学生になっても変わらなかった。
大学でのサッカーも引退し、就職活動。 数多くの企業を見聞して自分の将来を模索した。 そして最終的に、僕はユーコーという会社に就職を決めた。 何気なく参加した会社説明会で、「笑顔と元気の創造」という理念に共感した。 なぜなら、僕は誰かの笑顔と元気を創造する喜びを知っているから。
これからはユーコーで、多くの人の「笑顔と元気」を創造する。 僕はそう決意した。
- 2013年 母からの手紙
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3人兄妹の真ん中で育った僕の口癖は、「どうせ・・・」だった。 成績優秀でスポーツ万能な兄。 無邪気な笑顔で親戚たちから可愛がられる、年の離れた妹。 それに比べ、僕には何のとりえもないように感じていた。 両親の愛情もふたりだけに注がれているように見えて、僕の中に“真ん中 コンプレックス”が芽生えた。
「どうせ、僕には良いところなんてないんだから!」 「どうせ、兄貴のほうが頭いいし!」 「どうせ、どうせ、どうせ・・・・・・」 母に小言を言われるたびに「どうせ」を連発し、ふてくされる僕。 その度に悲しげな顔つきで、何か言いたげにこちらを見つめる母。 「そうか、僕はいわゆる『デキの悪い子』なんだ―」 言葉にできない悔しい気持ちに、僕は常につきまとわれていた。
そんな僕も何とか大学に合格。 実を言えば、初めてのひとり暮らしは不安だった。 それでも“真ん中コンプレックス”をどうにかしたくて、 「引越しはこっちでやるから!仕送りもいらないから!」と精一杯強がった。 威勢よくそう宣言した手前、生活費を頼ることもできず、 以来、アルバイトに明け暮れる日々が続いていく。 大変ではあったけど、自分なりに自立できた誇らしさはあった。 一人前になった気分から、兄妹といるときとは違う自分に、優越感すら覚えた。
ある日、母から久しぶりに電話があった。 勤務先でプロジェクトリーダーを任された兄のこと。 部活で全国大会出場を果たした妹のこと。 二人の近況を、嬉しそうに母は話していた。 兄と妹は、相変わらず輝き続けてみえた。 “なのに、僕はなんて小さなことで満足してたんだ?”。 ふと脳裏をよぎる、忘れかけていた言葉―「デキの悪い子」。
けれど、電話はそこで終わらなかった。母はこう続けた。
「お前、大学生になって手がかからなくなったね。大学も自分で決めたし、 仕送りもいらないって・・・。ちょっと寂しいけれど、成長したんだなって、 母さんはとても誇りに思っているよ。」 僕は無言で携帯電話を握りしめた。
「でも、たまには頼っていいんだからね。何歳になっても、あなたは私たち の大事な息子に変わりはないんだからね」。 いつもならば「はいはい」と冷たくあしらう母からの電話。 でもなぜかその日は、いつまでも繋がっていたいと思った。 知らないうちに、涙が頬をつたっている。 「・・・・わかった。あっ、バイトの時間だから。またね」。 泣いているのを悟られまいと、そそくさと通話を切った。
大学3年生になり、アルバイトに割いていた時間を就職活動に注いだ。 様々な企業の中で、最終的に僕はユーコーという会社に就職を決める。 一番大切にしていることは「笑顔と元気」。それが僕の心を打った。 幼い頃、自分のコンプレックスに直面した自分。 些細なことにこだわって意地を張っていた自分。 僕はひとりだけで生きているわけじゃなかった。 あの日の電話で、そのことに気付くことができた。
「笑顔と元気」 僕と、出会う人、関わる人、全てに届けていきたい。
その思いを伝えると、母は笑って言った。 「またひとりで決めたんだね。でもお前の選択なら正しいと思うよ。大学に 入った時のように、また一生懸命がんばりなさい。でも、たまには頼ってね」。 強がりは強さに変わっていた。 それは兄にも妹にもない強さだと、いまの僕には分かる。 母はそれをとっくに知っていて、温かく見守り、応援してくれていたのだ。 ほかの家族も同じだった。いつでも見守り、信じてくれる家族たち。 ―ひとりじゃない。 そのことに気づけた僕は、きっと、もっと、強くなれる。
- 2012年 あの凧より高く
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大学生活最後の冬休み。就職先はすでに決まった。卒論のメドもついた。 正月も近いし、就職に備えてそろそろ荷物の整理をしておかないと——そう思って、 部屋を片付けていたら、押入れの奥から段ボールで幾重にも梱包された”宝物”が出てきた。 もう十年以上も前に、押入れに大事にしまいこんでいた、大きめサイズの凧。 それを見たとたん、あの頃の正月の光景が鮮やかに蘇った。 あの頃——小学生の頃、わが家の正月の定例行事といえば、 父と二人で朝から近所の河川敷へ向かい、一日中、凧を揚げることだった。
毎年、冬休みに入ると「今年は飛ばすぞ!」の決意とともに、凧作りを開始。 とりたてて工作が好きでも得意というわけでもなかったけれど、 その年も、自分なりに「まあまあじゃないかな?」と思える凧ができあがった。 正月の朝、自信の凧を胸に抱くように持ち、白い息を弾ませながら河川敷に向かう。 そんな僕のようすに目を細めて、父は期待を隠そうともせず、言った。 「おおっ?高く上がりそうだなぁ。飛行機にぶつかるんじゃないかっ?」 「えー?飛行機は無理だよ!でも去年よりは飛ぶはずだから、見ててね!」 それは絵に描いたように、明るく元気な父と子の会話だった。
「おっ、いいぞ!その調子!うん、こりゃ去年より高いぞぉ!」 正月の澄み切った空に舞う僕の凧を見上げて、弾けるような歓声をあげる父。 しかしその横には、ずっとしかめっ面のままの僕がいる。 確かに去年よりは高い。が、まわりの凧はもっと高い。楽しいわけないじゃないか。 僕は知っていた。アイツのも、あの子の凧も、高々と舞う凧たちの少なくとも何枚かは、 父親に作ってもらったものであることを。そんなのずるい。ずるいよ。 そんな考えが頭にこびりつき、その日は最後まで楽しめなかった。
その日、帰り道で僕は、やや不機嫌な口調で父に言った。 「お父さんさぁ…凧作ってよ」 「…なんでだ?」 「僕ヘタだし…自分で作っても高く上がらないし…」 「去年より高くなったじゃないか」 「でも…みんなもっと高く上がってるもん」 「みんなはみんな、お前はお前でいいんじゃないか」 「もっと高く上げたいんだよ!みんなもお父さんに作ってもらってるし…」 「みんなと同じならいいのか?お前はそれでいいのか?」 「何言ってるのかわかんないよ!もういい!」 泣きそうな顔を見られたくなくて、僕は一人、走って帰った。
もうお父さんとは口をきいてやるもんか!その夜、父ではなく母に思いをぶちまけた。 「なんでウチのお父さんだけ作ってくれないの!?」と僕。母は微笑を浮かべ、言った。 「お父さんはね、あなたが嫌いなわけでも、凧を作りたくないわけでもないと思うのよ」 「じゃあ、なんで…」 「自分で作った凧が高く上がるうれしさを感じてほしかったんじゃないかな」 「だって難しいもん…」 「ぜんぶ作ってもらうんじゃなくて、高く上がる作り方を教えてもらったら?」
翌日、母に言われたとおり、父にたのんでみた。 すると父は「よしっ!」と膝を叩いて準備を始め、僕と並んで凧を作りはじめた。 「そこ、アシの長さが短すぎるぞ」 「竹ひごを結ぶ紐はもっと太いのを」 その日、父は僕に教えながら、僕よりも楽しそうな顔をしていた。
月日は流れ、僕はこの春、ユーコーという会社に就職することになった。 「就職祝いだ」と、例年より豪勢なおせち料理をつつきながら僕は言う。 「僕は自分にしかできない仕事をしたい。自分の成長が会社の成長につながるような…。 だからこの会社に決めたんだ。負けないよ!」 「負けないって、誰にだ?」と父。「自分にだよ!」と僕。 「そうか。頑張れよ」。大きくうなずいてから、トイレに立った父。 気のせいだろうか、父の目は少しだけ潤んでいるように見えた。
春から、ひとり暮らし。初めて自分で凧を作る喜びを感じたあの日以来、 部屋の奥で静かに僕を見守っていてくれていた凧を、大切に、荷物の中にしまった。
- 2011年 魔法の言葉
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小学6年生の春、一人の転校生がやって来た。 彼は、何だかとても都会的で、特に、言葉のイントネーションやアクセントから 僕等はそれを強く感じ取っていた。 最初は、そんな彼の事が物珍しく、クラスの輪の中に溶け込めそうだったが ある日突然「僕等とは違う」という理不尽な理由で、その輪から押し出されていった… そんな中にあっても、彼とは気が合う部分が多く、随分と仲良くなっていた僕は 仲間の輪から押し出されていく彼の姿が切なく そして、何も手助け出来ないでいる自分が情けなく感じる日々が続いていた…
そんなある日、彼の教科書を隠そうとする、クラスメート達の姿を偶然見つけた僕は 茫然と立ち尽くしていた。だが、次の瞬間、自分でも信じられない行動にでていた… その後、落ち着きを取り戻したとき僕は 相手の子が泣きながら倒れこんでる事に、ようやく気が付いた。 「喧嘩両成敗」という事で、放課後、僕等の母親が学校へ呼び出されたが 「クラスメートに怪我させた!」という言葉だけが、頭の中で響き渡っている母は 誰彼かまわず、引っ切り無しに頭を下げ続けた。 その日の夜には、怪我をしたクラスメートの家の前で、父までも深々と頭を下げていた…
アパートまでの長い道程、無言で歩き続ける僕に、父が突然切り出した。 「大丈夫。信じてるから。」 今日一日に起きた、見たくはない出来事で頭の中が一杯の僕は その言葉が、父にとって都合の良いものに聞こえてしまい 咄嗟に「何でだよっ!」と叫び返してしまっていた。 罰の悪さと、自分自身を正当化するかの様に沈黙を守っていると 今度は、僕の目を見据えながら、父はゆっくりと話し出した。 「怪我させたのはお前が悪い。それは絶対に反省してほしい。でもな、お前が感じた事、 お前が信じた事は間違ってない。父さんも母さんも、そう信じてる。」 そう言い終えると父は、僕の肩を引き寄せながら「強くなったな!」と、 感慨深げに言葉をくれた。その手の温もりと力強さを直に感じたとき僕は 頑なに我慢していた涙が、堰を切ったように溢れ出していた…
それからの僕は、今まで以上に、自分が信じたことを大切にし そして、自分自身が信じるに値する人間と成るため、誠実に生き抜く事を心に決めた。
月日は流れ、大学卒業を間近に控えた僕等は、初めて小学校の同窓会を開いた。 久し振りに会うクラスメート達は昔を懐かしみ、時間を忘れて 春から始まる果てしない夢を熱く語っていた。 僕自身も、ユーコーを就職先に決めた理由でもある 「信じられる。信じてくれる。」という生き方の素晴らしさを 自分自身の胸に再度刻み込む様に、大勢の仲間の輪の中で語った。 その輪の中には勿論、あの日以来クラスの大切な仲間となった、今でも都会的な彼の姿があり 彼は、10年前に見た父と同じ様な表情で、僕の話を真剣に聞いてくれていた。
- 2010年 新しい街へ
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小学3年生の時のこと、それは僕にとって 楽しい未来を閉ざされたような絶望的な宣告だった。 父の転勤に伴い、引っ越しをすることになったのだ。 母からその話を聞かされた時は、頭の中が真っ白になり、 気がつくと我慢できずに大粒の涙が溢れ出していた。 「どうして?どうして?絶対、行かない!」僕の言葉に、 母はただ黙って、申し訳なさそうな表情を浮かべるだけだった。 入学以来ずっと一緒に過ごしてきた友達との別れ… 全く知らない場所に行くことへの不安… 僕は暗く沈んだ気持ちのまま、住み慣れた街を出ていくことになった。
引っ越し先の、やや使いこんだ感のある家に、次々と荷物が運び込まれてきた。 思い出がしみ込んだ家具や洋服や本… どれもが、その部屋にはなんだか不似合いに見えた。 段ボール箱だらけの部屋に佇んでいる僕に、父が声をかけてきた。 「学校…見に行ってみないか?」 外へ出た僕たちは、あまり言葉を交わすこともなく歩き続けた。 見知らぬ街の、路地や公園や人たち…全てが別世界のもののように見えた。 やがて学校に着くと、前よりも大きくて古い校舎があり、 校庭には遊んでいる子供たちがいた。 しばらくそれを見つめていた父が、静かな口調で語りだした。 「…寂しいか…?」 「…うん…」 「…怖いか…?」 「…」 「…本当はな、お父さんも不安なんだ」 今まで見たことがない、少し寂しげな父の横顔が、そこにはあった。
「お前もお父さんも、これからいろんなことがあるだろう…でも、そんな中でもきっと、今しかやれないことや経験できないことがあると思うんだ」 「お父さんはそういう想いで、この街を自分の大切な場所にしていこうと思っているんだ」 この時初めて、父は真っ直ぐに僕の目を見つめていた。
その後、商店街で買い物をして帰った。家に着く頃には、僕の胸にあったわだかまりや不安はずいぶん小さくなっていた。 やがて新しい生活に慣れ、多くの友達や楽しい思い出が生まれた。強い想いや夢があれば、見知らぬ世界も、輝いた場所に変えられることを学んだ。
この春、大学を卒業する僕は、あの日以来、たくさんの思い出が詰まったこの街を出る。 就職活動中にも様々な出会いがあったが、僕が最終的に選んだのは、ユーコーという会社だった。 今日、住み慣れた街を両親と歩きながら、僕はこれから広がる未来への想いを話していた。 「ユーコーはね、一人一人の自主性を尊重してくれる会社なんだよ。ここでなら、僕の夢や想いを、自由に描いて形にしていけると想うんだ」 熱くなって話す僕を、両親は微笑みながら見つめていた…
新しい世界へ飛び出そうとする僕の脳裏には、あの日の父の眼差しが浮かんできていた。
- 2009年 多くの願い事
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静かに凍てつく夜空に、除夜の鐘の音が響き渡る頃、 歩いて初詣に出向くのが、我が家の一年の始まりだった。 それは、小学生だった僕と妹にとって、唯一、夜ふかしを許して貰える日。 境内の夜店やおみくじ、太鼓の音、お神酒、燃え盛る篝火・・・ 普段では見られない情景も手伝い、 高ぶる気持ちで凄く大人に成ったような気がし、とても嬉しかったものだ。 そして家への帰り道、いっぱしの大人を気取り父に話した事がある・・・ 「お父さん長過ぎ!」「・・・何が?」 「お参りの時間だよ!」「・・・あぁ。」 「一人だけずうっと拝んで!」「・・・そうだな。」 「後ろの人に迷惑じゃない」「・・・何で?」 「だって『まだなの?』って、嫌そうにしてたし!」「・・・そうか?」 「見てるこっちが恥ずかしいよ!」「次からは短めにするかな」 「大体何でそんなに長いの?」「まぁ、色々あるからなぁ」と、 笑ってことばを濁す父に、なんだか子ども扱いされているようで、 とても歯がゆく感じていた。
月日は流れ、今春僕は大学を卒業する。 卒業後には、株式会社ユーコーという会社へ就職することも決めていた。 久しぶりの家族揃っての初詣、参道を並んで歩くと昔よりも 小さく感じられる両親に、 就職を決めた理由について話していた。 「自主性を尊重してくれると感じたんだ! 組織が主役じゃなく、一人ひとりの社員が主役で居られるように、 常にその人の成長を温かく、そして厳しく見守ってくれるような、 そんな大きな存在の会社だと思ってるんだ!」と、 熱くなって話す僕に、母は嬉しそうに父をこづき、父は苦笑していた。
「妹の大学受験がうまくいきますように・・・ 母の膝の調子が良くなりますように・・・父の血圧が下がりますように・・・ 僕が近くに居ませんので、家族がいつまでも元気で、仲良く、幸せでありますように見守っていて下さい・・・本当にどうかお願いします・・・。」 静かで、そして一瞬だと思えた時間が過ぎ、閉じていた瞼をゆっくりと開けた。 太鼓や参拝客の喧騒がよみがえる中、隣で拝んでいるはずの父・母・妹の姿は既になかった・・・。 「お兄ちゃん、こっち!こっち!」「・・・あっ!?」 「遅いよ!」「・・・ごめん!待った?」 「待った!お兄ちゃんお願いし過ぎ!」「違う!違う!でも、ほんとごめん!」 と、妹と僕のやり取りを、笑いながら、そして頼もしそうに父と母は見つめてくれていた。 家までの帰り道、お神酒のせいかどうかは分からないが、僕の体はいつまでも熱かった。
- 2008年 青い自転車
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もうずっと昔、あれは小学二年生の時のことだ。 僕には、仲の良い三人の友達が居た。僕ら四人は、何処へ行くにも何をするにも 何時も一緒だった。 ただ、遠くにハゼ釣りに行く時だけを除いて・・・。 というのも、僕だけが自転車を持っていなかったため、到底歩いていくことなど 出来なかったからだ。 僕にはそのことが何だか惨めに思えて、とても悔しかった。
ある日僕は、ありったけの勇気を奮い起こし、父に頼んでみた。 「自転車・・・欲しい・・・」 「なんでだ?」 「みんな・・・持ってるし・・・」 「お母さんのがあるだろう。お母さんのを使え。」 「足・・・とどかないし・・・怖いから・・・」 「すぐに慣れる。あれで充分だ。」 「・・・みんなと同じじゃないと・・・」 「みんなと同じってなんだ?お前は人が持っている物を持ってないと駄目なのか? 仲間はずれにでもなるのか?」「どうなんだ?」 「・・・だって・・・」 僕は、声にならない言葉を、涙を流しながらつぶやいた。 「どうしたの?」 一部始終を台所で聞いていたはずなのに、母が、僕に声をかけた。 「お母さん!うちは自転車も買えないくらい貧乏なの?」 「お母さんの自転車じゃ怖いし、カッコ悪いんだよ!」 「お父さんは僕のことなんかどうでもいいの?僕だけ持ってないんだよ!」 僕は、自転車が無いから自分だけ釣りに行けないこと、そのせいで辛い思いを していることを母にぶつけていた。
黙って僕の話を聞いていた母が「もし、友達が自転車を持ってなくても・・・それでも欲しい?」と尋ねた。 僕は泣き顔のままで少し考え、そして母の顔を見つめた。 「お父さんはね、好きなことも嫌いなことも、お前自身に決めて欲しいのよ。人が持っているとか、人がどうとかで決めてたら、 結局長続きしないし、大切にもしないでしょ?」 そして母は、涙ぐむ僕の前に屈み込んで、微笑みながらこう言い残し部屋を出て行った。 「みんなが持ってるから欲しいんじゃなくて、釣りに行きたいから欲しいんでしょ?」 その週末、学校から帰った僕の目に飛び込んできたのは、まだサドルにビニールが付いた、ぴかぴかの青い自転車だった。 すっかり興奮している僕を、両親の温かい笑顔が迎えた。 父は、公園でおっかなびっくり自転車をこぐ僕に、「怖くない!下を見るな!しっかり前を向け!」と、時には叫び。 「そうだ、そうだ、いいよ!」と、時には優しく。 僕以上に息を切らせ汗だくになりながら、日が暮れるまでずっと、僕のことを一生懸命に支え続けてくれた・・・・・。 それからの僕は、人がどうとか、誰がどうとかではなく「僕はどうなんだ!」を考え、どんな結果になろうと、 自分自身で納得のいく選択を大切に生きていくことを心がけた。
月日は流れ、僕が就職先に選んだのはユーコーという会社だった。社員一人一人の自主性を重視している会社だと感じたからだ。 「ユーコーに就職しようと思う。」僕は父に報告した。 父は、僕が自転車をねだった時のように尋ねた。 「なんでだ?」 「この会社で働いてみたいから!」力強く僕は答えた。 「そうか。」と、父は静かにうなずいていた。
- 2007年 伝えたい「ありがとう」
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「いつまで寝てるの、早く起きなさい」。
子どものころから僕は毎日、休みの日でも平日と同じ時間に、 母から叩き起こされていた。前の日に深夜まで勉強をしていても、 部活でくたくたに疲れていても、お構いなしに起こしに来る。 それがとても煩わしくて、僕はしょっちゅう「もう少しゆっくり寝かせてよ」と 口答えしては、「朝起きられない子は、何に対してもだらしなくなるのよ」と 言い張る母にうんざりしていた。そして、その習慣は大学に入ってからも続いた。 僕は、次第に口答えすらしなくなった。母の言い分に納得したわけでなく、 この人に何を言っても無駄だとあきらめたのだ。
が、ある日、大学に入った頃から勤めていたバイト先の店長に こんなことを言われた。 「お前だけだぞ、こんなに長く勤めて、一度も遅刻をしてないのは。 今までいろんなアルバイト生を見てきたけど、はじめてだな」。 僕は「どうも」と声にならない返答しかできず赤面してしまった。 褒められて照れたのではない。遅刻をせずに済んでいたのは、 母に口うるさく起こされ続けたからだと、自分だけが知っていたからだ。
母は、僕が子供のころから躾すべてに厳しく、それがうっとうしくて たまらなかった。でも考えてみると、僕が外で褒められていたことと言えば、 「言葉づかいが良い」とか「姿勢が良い」とか「挨拶がきちんとできる」とか、 どれも母から厳しく叱られて身に付いていたことばかりだった。 あのときの店長の言葉で、僕は母の気持ちがやっと分かったように思う。 そして、それが分かったとき僕は、自分と母との距離が縮まったことを感じていた。
間もなく、僕の就職活動は山場を迎えたのだが、僕が最終的に選んだのは、ユーコーという会社だった。 一人一人の社員に目を注ぎ大切に育てるが、甘やかす訳ではなく、サービス業としてお客様第一主義、そのためには厳しい場面もある。 そんな企業姿勢が決め手だった。そしてユーコーも、僕の母によって教えられ自然に身に付いた言葉づかいや姿勢を見てくれたのだろうか、 僕は無事採用に至った。
初出勤の朝、母が部屋へ僕を起こしに来たとき、僕はすっかり準備を整え、真新しいスーツに身を包んで母を迎えた。 「あら、もう起きてたの」 「もちろん。これからはちゃんと自分で起きるから、大丈夫」 母は「そう。でも、ちょっと心配」と、今まで見たこともないような優しい顔で微笑んだ。 これからも僕は、さまざまなことで人から評価されることがあると思う。 そのたびにきっと、母に感謝することになるだろう。僕は母に、口にすると照れくさいその「ありがとう」を伝えるためにも、 精一杯仕事をしようと、固く自分に誓った。
- 2006年 出発の時間
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子供の頃の忘れられない記憶がある。 それは、小言ばかり言う母に「うるさいな、いちいち。」と、吐き棄てる様に 言ってしまった事だ。
母はしゃがみ込んでしまい、悲しげな表情で、僕のことを見つめていた。 直ぐに「ごめんなさい」と言うべきだったが、恥ずかしさや気の弱さを 正当化して「まあいいや」と自分の心に言いきかせ、謝る事が出来ないまま 時が過ぎ、この春僕は就職する。 ユーコーに就職が決まった僕は、一人暮らしをすることに決めた。 引っ越しを手伝ってくれている母に、思い切ってあの時のことを切り出した。 「気になってたんだ・・・勇気がなくて、ごめん・・・」 母は「ほっ」とした表情で 「そうねぇ・・・あの時は、お母さんの想いが伝わってないのかと不安で 仕方なかった。でもね、お父さんに言われたの。子供にとって母親という存在は 絶対なんだって。母親に対する愛情や信頼、そして、どんなに憎まれても、 この人だけは、結局最後には自分を許してくれる、だから無意識に甘えて いるんだって。それに、なんとなく感じていたの、あの時お前が心の中で 謝っていることも・・・。 お母さん嬉しいの。素直に「ごめんなさい」が言える子に育ってくれて。 そして、自分の力で夢を持てるいい会社を選んで、 立派に合格した姿を見せてくれて・・・本当にありがとう。
業界の先駆者であるユーコーは、子の声に耳を傾ける親のように、 社員全体に等しくチャンスを与えてくれる会社。 僕はそこに人間的な温かさを感じて入社を決めた。 これからは、口にすると照れくさい、両親への感謝の気持ちを伝えるためにも、 ここで立派に働く姿を見てもらおうと思っている。
- 2005年 母のカレー。
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子供の頃、僕はカレーが嫌いだった。 ある意味、カレーを憎んでいたと言ってもいいかもしれない。 当時、母は毎日近所のスーパーにパートへ出ていた。身なりも構わず、 ただ黙々と働く母の姿は、まさに暮らしに疲れたおばさんと言った感じで 僕はそんな母を、いつも心のどこかで恥じていた。 仕事は随分忙しかったみたいで、週に何度か残業をした。 その度に母は、子供たちだけで食べられるように、作り置きのきく夕飯を用意した。中でも出番の多かったのがカレー。だから子供時代の僕にとっては、 カレーは母のいない淋しい食卓の象徴でしかなかったのだ。 「カレーつくっといたから、あっためて、みんなに食べさせてね。」 慌ただしく出かける母のお決まりの一言に、僕はいつもうんざりしていた。 母の残業の日は、僕は学校から真っすぐ家へ帰らねばならなかった。 仕事で忙しい両親が戻るまで、妹や弟の面倒をみて過ごすのだ。 そして、夕方になれば母がつくったカレーを温めて食べさせた。 料理をこぼしたら拭いてやり、食事の後始末もひとりでやった。 サッカーも野球も、友達と遊びの約束などできるはずもなかった。 楽しげに遊ぶ友達の姿を見る度に、僕は思わずにはいられなかった。 「何で、僕だけこんなことしなきゃならないんだ。」 その想いはやがて僕の胸をしめつけ、息苦しさは増していった。 そうして僕は、子供の大好物であるカレーが嫌いになっていった。 そんな悶々とした想いが続いたある日の事、珍しく早く帰って来た父に、 僕の本心をぶちまけた。 「僕、ホントはカレーも母さんの残業も大嫌いなんだよ。カレーなんて食べなくて いいから、友達といっしょに遊びたいんだよ。」 父は、黙って僕の話を聞いていたが、やがておもむろにこう言った。 「何でそれを母さんに言わないんだ?」 僕の脳裏に、すこしばかりくたびれた母の笑顔と声がよぎった。
…あんたがいてくれるから、母さん、安心して仕事できるのよ… 「そんな事言えないよ。だって母さん、僕がやんなきゃ困るし。」 僕は思わず叫んでいた。父は面白そうに僕の顔を覗き込みながら、 「友達と遊べないより、母さん、泣かすほうが辛いってわけだ。」 そうして父は、大きな手で僕の頭をくしゃくしゃと撫でてこう言った。 「お前も結構大人になったんだなぁ。お父さん、何か嬉しいねぇ。」 僕の胸のわだかまりが、その時、ゆっくりと溶けはじめていた。 そして十数年の時が流れ、今年、僕は大学を卒業した。 就職も決まり、いよいよ明日、親元を離れるというその日の晩、僕は家族と食卓を囲んで、あの頃と変わらぬ母のカレーを食べていた。
「ユーコーはね、アミューズメント業界の革命児って感じの会社なんだ。とにかく常識にとらわれない発想と方法で、 これまで皆が持ってたパチンコのイメージを常に変革させている会社なんだ。 だから俺も、いつかはこの会社で、業界の常識をひっくり返すようなデカイ仕事がしたいんだ。」 自分が選んだ会社を、少しばかりの気負いを交えて語る僕の頭を、父は、少し小さくなった掌でくしゃくしゃと撫でて言った。 「いいから早く食え、カレー冷めちまうぞ。」 照れくさそうに笑う父と、その傍らでほんのり瞳を潤ませた母…。ただ黙々と、自分達兄弟を幸せにする為に働き続けた両親が 「お前ならきっとやれる」そう言っている気がした。 こみあげる熱い何かを飲み込むように、僕はカレーを頬張った。子供時代、あれほど憎んだ母のカレー。 おいしいと思えなかったカレーの味が、今は、ただ素直においしいと思えた。
- 2004年 折鶴の心。
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幼い頃、僕は、いろんな願いをこめて、母といっしょに鶴を折った。 逆上がりができますように。漢字テストで満点がとれますように。 母の鶴にどれほどのご利益があったかはわからない。 それでも母が自信たっぷりに「大丈夫、お母さんの鶴は特別だから」と囁くと、 不思議とすべてがうまくいくような気がした。 まるで、魔法か何かのように。 けれども、時とともに母の魔法は色褪せ、中学に入る頃には、何かと言えば 鶴を折る母が疎ましくすら思えた。僕は、よく父にこぼしたものだった。 「お母さんの鶴って、ただの気休めだよね」。 父は笑いながら「そうだな」と答え、「でもな」、と声を潜めて続けた。 「それでも母さんの鶴は特別なんだ。お前もいつかわかるよ」。 その時の僕は、少しふて腐れていたかもしれない。 父の訳知り顔がどうにも癪に触って仕方なかった。 その後、母が僕のために鶴を折る事はなかった。 そして月日がたち、僕が再び、母の折り鶴と出会ったのは、就職試験の朝だった。 その前夜、僕は、いつになく饒舌だった。 「僕は、僕にしかできない仕事をしたいし、いずれは、組織のトップを めざしたいんだ。ユーコーはそれができる会社なんだ」。 自分を鼓舞するかのように語り続ける僕に、両親は、少し眩しそうに目を細めた。 翌朝、試験に出かける僕に、父は「頑張れよ」と声をかけた。 その父の傍らで、母がためらいがちに、掌を差し出す。 すっかりふしくれだったその手には、小さな金色の鶴が、ちょこんと載っている。 「怒られちゃうかもしれないけど、何だか折りたくなっちゃって」。 恥ずかしそうに微笑む母から、その小さな鶴を受け取ると、僕の中で、 子供の頃とは違った不思議な自信と確信が溢れはじめた。 それは、気休めでもなく、むろん魔法でもない。 心の奥深いところからこみあげてくる力強い勇気だった。 「それでも母さんの鶴は特別なんだ」。 あの日の父の言葉がずっしりと重みをまして、僕の胸に響いた。
- 2003年 柱のキズ。
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我が家の柱には左右2列のキズがあります。 息子と孫、親子2代の成長の証です。 息子一家が訪れる盆、暮れには、この柱を囲んで、親子の背比べに興じたものです。
小柄な孫は、いつも、同じ年頃の父の背丈にわずかに及ばず、 背を測る度に不貞腐れました。そんな孫に、私は必ず、こう言ったものです。 「背なんか人と比べるもんじゃない。これはお前が大きくなってる証なんだ」。 それでも、孫はきかん気な瞳で柱を睨み、絶対、追い越してやると息まくのです。「負けん気の強さは、お前そっくりだ」。 そう囁く私に、息子は嬉しげに頷いたものでした。 その孫も、この春には大学を卒業し、社会人になります。 父親の背も、とうの昔に追い越しました。
就職が決まった日、孫が、久しぶりに我が家を訪れました。 「俺はね、じいちゃん。ユーコーに入ったら、必ず経営の最前線を担ってみせる。 俺は、俺の成長が会社の成長につながるような仕事がしたいし、 ユーコーならそれが出来るんだ」。 孫は、幼い頃と変わらぬきかん気な瞳を輝かせながら、将来を語りました。 その彼の顔に宿る、精悍な大人の男の表情を、私は、ただ目を細め、 見つめていたのです。 帰りしなに、孫は、もう一度、背を測りたいと言い出しました。 「この柱は俺の成長の証だからね」。 しかし、私にはわかっていたのです。 この子のこれから先の成長を刻むべき柱は、彼自身の人生でしかないのだと…。 ふと、嬉しげに微笑む息子の顔が、私の胸をよぎりました。 その笑顔に頷いて、私は、重い腰を持ち上げます。 我が家の柱に最後のキズを刻みつけるために。
- 2002年 二つ目のお守り。
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初めて母にお守りをもらったのは、小学校に入学したときだった。 「学業成就」のお守りである。 あれから十六年、就職活動に勤しむぼくに母は二つ目のお守りをくれた。 朱糸と金糸で織られた、ちょっと大きめのお守りには「商売繁盛」の文字が あざやかに浮かんでいた。 「どういう意味?」といぶかるぼくに母は答えた。 「会社の繁盛に乗っかるだけじゃなくて、お前自身が会社を繁盛させるような 存在になってほしいからだよ」。
そして、この春、ぼくはユーコーに就職した。 アミューズメント業界のリーディング企業のひとつである。 入社式を終えた夜、ぼくは母に言った。 「企業を引っ張っていくだけじゃなく、業界全体の将来を切り拓いていこうと思う。ユーコーって会社は、そのチャンスを与えてくれる会社なんだ」。
母は何も言わずにただ笑っていた。 少し目尻が下がり気味の目が、「父さんの若い頃に似てきたね」と 語っているようだった。